なぜ、縁あった人達に『言葉の贈り物』やインスピレーションメッセージを発信し続けているか?
それは『自分の言葉を待っている数少ない人達』の為なんです。
その一点の想いです。
それが自分らしい自分にできる『お役立ち』だと自覚しているからということと、
目に見えない『縁深い人達』を探す為でもあるんです。
実は『縁深いであろう人達』というのは、たぶん前世でも価値観の合う人達だったと思っているから、
今世(この世)でも共に交流したいという想いがあるんです。
それが『自分の言葉を待っている数少ない人達』なんです。
1%百人中一人くらいの割合だと思っておるんです。
そうでない『その他大勢』の人達には、素直に捉えない人は多いだろうと感じてはおります。
まぁインスピレーションメッセージは、読みたい人しか読まないからいいんですが。
縁あった人達に『言葉の贈り物』を自己紹介(考え方や価値観を紹介することを自己紹介と言うんです本来は)
として昔から発信して来ました。
『言葉は人の心を救うし、勇氣付ける』からです。
そこで、受け取る人の捉え方や行為で、社交辞令の人が、やっぱり多いんだろうなぁ、
と感じてはおりますが(それが普通なんだろうけど。99%くらいかなぁ)
ワシは『自分の言葉を待っている数少ない人達』を探す術(スベ)だから、続けておる訳です。
そこで誠実の反対は何かなぁ?と浮かんだ訳です。
辞書で調べた事はないんですが『嫌みな社交辞令』が誠実さの真反対の意味じゃないかと感じる訳です。
出会いませんか?そんな人達。
社交辞令が全て悪いと言うてるんじゃないんです。
『安易な社交辞令』『嫌みな社交辞令』は慎んだらいいのに。と思う訳です。
相手の心中を慮って、自分なりの真心で返事する人であってほしいと願う者です。
それが『丁寧な心』を養成して行くのに。
こっちの純粋な想いを慮ろうという気持ちはサラサラない人。疑って見る人達。
他者を疑う前に己の眼(まなこ)を疑わないかんのやけどね。
純粋に接した人に対して、その気持ちを慮ることなく、社交辞令で返す人。
そういう人のことを、不誠実な人。とワシは思う訳です。
心の純粋な人にとって度重なる自分への好意的な反応が、
後で社交辞令だったと判ったら、えぇっ?!あれだけ好意的な反応してくれてたのに、、、って、
人間不信になってしまうんやろうねぇ。
皆さんは、相手の外見や行為を自分の『思い込み』で判断して、
社交辞令で返すような不誠実な人に陥らないようにね。
相手を慮るマインドの無い、社交辞令人生の人は『三流』の人間に陥っている人です。
しょうもないプライドや見栄が心の大半を占めているんかなぁ?
ほんまにカッコ悪いんだけど、本人は悦に入ってるから始末に終えない人も居ることも事実やねぇ。
社交辞令が日常の人には、たぶん深い『傷』や『恐れ』があることがあるかも
知れないなぁと思う訳です。
拒絶されたくない。誤解されたくない。いい人と印象付けたいから。
自分の価値が誰かに、貶(オトシ)められることを恐れている。
だから先に敢えて社交辞令で行動してしまうんかも知れんのです。
しかしそれは、他者からの贈り物を受け取る手を、引っ込める行為でもあるんだ。と気づいてほしいと思う訳です。
相手と自分の目に見えない『縁の深さ』を感じる術は、自分から価値観を発信して、その反応を観察するしか、
分からないと思う訳です。
だから『自分の言葉を待っている数少ない人達』の為に、勇氣を持って
『前向きな言葉』を贈り続けてみませんかと言いたいんです。
あなたの前向きな言葉が、誰かを救うことに繋がるかも知れんのやから、
勇氣を与えるかも知れんのやから。
幸福は濃い付き合いから生まれる。と思うから、
人間関係は、心配りと深い関わりが大切なんです。
だからワシは『来る者を選び、去る者を追わず』でやって来ましたから。
世間では『来る者を拒まず去る者を追わず』なんだろうけどワシは来る者を選んでいますから。
どういう基準で選んでいるか。
それは相手に『素直さと勇氣』を感じるか否かで選んでいます。