『心ここに在らざれば見えども、見えず』
まぁ、多いわぁ。何が?
『ちゃんと文章を読まない人』のことです。
メール、LINE、プリントアウトした文章。
心が、そこに無いから観ているんじゃなく、眺めているだけ。
目には入っているけど心に入っていない。
「ウッカリ」の多い人は当に、これです。
これを『心ここに在らざれば、見えども見えず。』と昔から言われていることです。
一つ一つ丁寧にキチンと『読む』心の習慣を訓練したら、やがて、あなたの心に『丁寧な心』が根付くのに。
何でもかんでも、そうしなさい。とは言うてません。
『誰が』メッセージをくれたのか、を考える心の習慣を身に付けてほしいのです。
自分に対してメッセージを送ってくれた人の『心中を察する』『想いを汲む』
そういう心の習慣が、自分の心の幅を拡げるんです。
それが誠実な人の心構えじゃないでしょうかと言いたい。
あなたは、誠実でない人、好きですか?嫌なら、自分は誠実に生きなきゃあ。
人間の心の幅を拡げるには、価値観の異なるものも、一旦は理解しようと試みるんです。
『おざなり』にしない心の習慣を身に付けたいものです。
『おざなり』つまり、やや関心を寄せてはいるけど、あんまりその氣が無いから、いい加減な気持ちで接している様。
自分が誠実な行動をしていないと、誠実でない人達が忍び寄って来るかも?(笑)です。
今、自分の周囲に誠実で無い人達が居るならば、ひょっとしたら、
あなたが過去に、いや現在、誠実な気持ちで何事も為していないから、
あなたの心から、誠実さが無くなっているんじゃないか?と、ちょい考えて、
自分の心に向き合ってみてはどうですか?
そういうことに『あぁほんまやなぁ』と自省しない人は、どういうように陥って行くか、教えましょうか。
人間から『鬼』に変化して行くんです。
鬼とは、仏教が教える三つの総称のことを言います。
貪欲(とんよく)と、嗔恚(しんに)と、愚痴(ぐち)を合わせた生き物を鬼と仏教は教えます。
貪とは、物質的むさぼり金銭欲や権利欲や物欲。
欲とは、精神的むさぼり権力欲や名誉欲。
嗔とは、目に角を立てて怒る形ある怒り。
恚とは、精神的な怒りや義憤。
愚とは、物事を正しく見ない、精神的愚かさ。
痴とは、痴人つまり肉体的愚かさ。
この三つを総称したものを『鬼』と言うんです。
嫌でしょう。自分が鬼に陥るのは。自分の周囲の人達が、鬼に成るのは。
人間は、この鬼の部分が備わっているんだけど、理性の意識と行動で、自分から鬼が出ないように、心の勉強をするんです。精神性を高めながら、心が、いつも澄んでゆくような日常意識が、大事で大切です。
※大事とは、自分にとって必要だから慎重に扱う様。一大事と言う言葉がある様に、大変な事が起きる様。大変な事が自分に降り掛かっては困るから、丁寧に慎重に行動する様。
※大切とは、かけがえのないものとして心を配っている様。丁寧に扱う様。重要な事。
自分の大切な人に対しては、その人が充実する人生を歩んでほしいと願っている筈。
なら、その人が充実する為に、自分が出来ることは何なのか。を考えて行動したらいいだけなんです。
その人のことを想っているんなら、文句を言うんじゃなく、見返りを求めるんじゃなく、ただ、やってあげれば善いんです。
それが日常化できたらならば、あなたが充実するのよ。
つまり、自分の人生の充実のためなんです。
自分を抑えて我慢するんじゃなく、相手が喜ぶことが自分の喜びに成る心境が、お互いの充実に成るんです。
だから、あなたにとって大切な人には、キレ💢😠💢ない事。
相手の魂を傷付ける事になるんですよ。大事で、大切な人なのに。
人間なら、反省と感謝しか本来は無いと思うんです。