皆さんがやろうとすることの『定義』を自分なりに考えることをしたら、
だいたい世の中スッキリ歩めますよ。と言いたいんです。
そもそも定義付けせんから、迷ったりブレたりするし、相手に勘違いや誤解を
生じさせてしまうのよ、ほんまに。
自分の『歩みたい様々な項目』を『定義』してみてはどうですか?
エモーションの経営指針書に『行動規準』という項目があります。
こう定めています。
『明るく・愉しく・生き生きと。魅力・晴れ・配慮のある人間』と。
この中の『晴れ』についての、日本語本来の概念を書いていることを皆さんにも、一応知っておいてほしいかなぁ。と、今週浮かんだので説明しときます。
ワシはうちの社員達にこう、内容説明を明記しています。
『晴れとは、肩肘張らず「氣力が満ちている状態」のことです。
人間には本来「善悪」というものは無いというのが日本古来の概念です。
人間に内在するのは「晴れ」と「穢(ケガ)れ=氣が枯れる状態」があるだけなのです。
つまり、氣力が満ちている状態か、氣力が萎えている状態なのか。の二つです。
エモーションの社員は、いつも肩肘張らずに、氣力が満ちている日常でありたいと思います。』と、書いているんですね。
穢れ=氣枯れ。我々を生かしてくれている神々の氣を枯らしてしまうものが、
穢れなんです。
どんな泥水でも、元の水は変わっていない。
泥が混ざっただけやから、泥を取り除いたら澄んだ水に成る。
こういう考え方をワシはしています。
人間の身体も水と同じで、どんな病気が来ようと、元々は、素晴らしい身体であり、それに罪や穢れという異物がくっついているだけやから、それを消せば、
元の身体が出て来ると考えておる訳です。
罪の意味も説明しますね。
罪とは「つみ」つまり「包む身」という意味です。
「つみ」というのは、泥棒をしたとか、そういうことでは無いんです本来は。
人間を産み出した神々から素晴らしい身体を包んで覆い隠してしまうことです。
もっと分かりやすく言うと、あなたが、誰かの可能性を包み込むような事をしていませんか?あなたの『我』で。
社員、家族の可能性をあなたの思いで包み込んでませんか?
それを『エゴ』と言います。
それは罪を犯している行為。ということになりますよ。ということです。
神々が産み出してくれた身体が、簡単にバイ菌や何かで侵される訳が無いと思うんです。神々は、そんな身体には作っておられない。
どんな状態になろうとも、元々の身体は素晴らしいんです。
ただ、それを覆い隠すようなものが付くからダメになるという訳です。
なぜ付くか?それは全て『我』なんです。
罪・穢れは全部『我』によって起こって来るんです。
我欲があるから、病気や、様々な迷い事や悲しみが出て来るんだと思う訳です。
こういうクセありませんか?
過去に腹立った事を、いつまでも根に持っている人。
何か嫌な感情になった時に、沸々と過去の腹立った事が連続で湧き出てしまう人。腹立った事は、忘れるクセになったらええのに。とワシは思う訳です。
斯く言うワシは、過去に腹立った事は、あんまり覚えてないというか、忘れる
クセがあるというか、忘れてるんです。
逆に、恩に感じた事は忘れたことは無いんです。
先週メッセージした、
受けた恩は石に刻め、掛けた情けは水に流せが、脳に染み付いている感じなんやけどね。でも、反対の人って、多いんかなぁ?
いつまでも、腹立った事を思い出してしまう脳の人。
悪いけど、そういう人は我欲が強いんよ。
信じたくないと思うけど、我欲が強いんよ。
自分の心の習慣を静かに振り返ってみてほしいんです。
そういう、我欲の脳になってしまっている人に、伝えたいんです。
いくら精神世界の本を読もうと、何を勉強しようと、あなたの脳をクリーニングして、過去に腹立った事を忘れないといつまで経っても、あなたの心に安らぎは来ないんです。ということを伝えたいんです。
これ、たぶん真理なんよ、ほんまに。
ワシは、自分の心が安らかなんは、たぶん腹立った事を忘れてしまっている脳のクセがあるからなんやと感じとる訳です。
受けた恩は石に刻め。腹立った事は水に流せが、脳のクリーニングに成りますから。
我欲を祓いなさいというのが『祓い』ということです。
一生祓い続けて、死ぬ間際になったら罪・穢れが祓われて、神の真実の世界を
見なければいけないと思う訳です。だから、年を重ねて行くと、体力が衰えて
行くように神々は人間の身体を作っていると思うんです。
体力があると、ついつい、体力があるから、自分の我欲で生きようとしてしまう。だから、それを無くす為に、自然と人間の体力を衰えてさせているんです。
体力が衰えて来ると、普通は我欲が消えて行くんだけど、逆に年を取れば取るほど、我欲で出て、頑固ジジイ。頑固ババアになっている人がおる(笑)
これは神に反することです。
『おいる』というのはヨボヨボになるということではないんです。
「お」は丁寧語でしょう。お菓子やお茶碗などの「お」です。
「い」は命です。
「る」は「来る」とか「する」とかの「る」で、続くという意味。
だから「おいる」は、丁寧に、命をずっと続けて来た素晴らしいお方。
と捉えてはどうでしょう。
そこにヨボヨボという意味は欠片(カケラ)も含まれてないのに、ね。
「老』という字は中国から来た言葉です。日本語は「おいる」ですから💪
「おいる」事は、長く丁寧に、命を続けて来た素晴らしいお方。
という意味だから、我を無くして行くと、神に近付くんじゃないかと思う訳です。全部無くしてしまったら神と一つに成る。これが真の人生じゃないかと。
鏡はカガミと読み、自分を映す。カガミから「ガ」を取ると「カミ」になるしね。だから毎日、鏡を見ましょう。
自分の顔を、じっと観察して我欲の顔になっていないか自己チェックを毎日してほしいと思う訳です。
年を取って年齢を重ねているから、我欲を無くさなければいけないのに、肉体があると、我欲が無くならないから、仕方ないので、神々は肉体を消滅させるのかも知れんのです。
我欲を無くさせて神の世界を見させようとしているのに、死んでもまだ、我欲を持っている人がいる。そういう人は『浮かばれない』んです。
だから、肉体消滅しているのに、死に切れていない。死ぬこともできない。
これでは神も救い様がないんじゃないかなぁと感じる訳です。
如何にしたら我欲を無くせるか、ということです。
神々が、神の世界を見なさいと願っているけど、我がある間は、見えない。
祓って祓って我欲を無くした時に見えると思うので、人生というのは、祓いそのものかも知れません。
たがら、理屈で考えるんじゃなく、感謝するしかないなぁと思う訳です。
こういうことを言うと我欲の強い人は、信じてくれないもんです。
我欲の強い人から見たら『あんた、感謝や、してないやん。
理屈ばっかり言うとるやん。』って、映るんだろうと感じます。
威厳とは、自然と頭が下がってしまう、感謝してしまっている存在だと思うんです。そのような威厳ある人物を目指したいけど、中々、です。
煩悩は中々捨て切れない。
脳は瞬時に感じてしまい、ついぶっきらぼうな発言をしてしまうもんです。
だから、生きてる間は『煩悩を捨てずに、涅槃を得る』学びと、感謝の行動をして行きながら、死ぬ間際は、煩悩を捨て切って、神の真実の世界が見れるようにしたいですね。
その為に、人生の折り返し年齢を自覚したら『求める人生』から『捨てて行く
人生』をワシは実践しとる訳です。
あなたの人生の折り返し年齢は、いつと決めてますか?
80歳で寿命を迎えたいなら、40歳ですよ。90歳なら45歳ですよ。
百まで生きたいなら、50歳来たら、
求める人生を徐々に止めて、徐々に止めれないなら、スパッと止めて、
捨てて行く人生を始めないかんですよ。
人生の断捨離です。
いつ?始めますか?