自分の運命を良くして行くには何事にも感謝すること。
と、自分が認めている人から言われて、感謝の行為をする人がいますが、
その行為は本心からなのか?
上辺の心から、発する言葉じゃないでしょうか。
心の底では、自分が良くなりたい為に、
パフォーマンスで
『感謝しています』と、思い付きで言う人も多い気がします。
こういうのは、感謝の念とは違うと思うんです。
人は窮地に立たされた時、それを救ってくれた人には『あぁ有り難い🙏🙏』と瞬時に湧き出て来る感情があります。
でも、この感情も『一時』の人が多い。
パフォーマンスで演技してしまう人の多いこと。
自分史を心静かに振り返ってみることを、おすすめします。
『この人のお蔭』と、心底思えると感謝の念が湧いて来るもんですが、
ワシが言いたいのは、窮地に立たされていなくても、
些細な行為にでも、
感謝の念が湧き出る心を備えた人間でありたいと思う訳です。
人は誰も苦労はしたくないと思っていると思うんですが、
苦労を体験した人は、
些細な行為に感謝の念が湧く人が多いと思います。
苦労を体験しながら、些細な行為に感謝の念も湧かない人は、
その苦労を生かしていないんよね。
残念な人やなぁと感じます。
そういう人は人間関係を、権利と義務でしか捉えていないんだと感じてしまうんです。
人間関係は権利と義務の関係と、多くの人が思っている節がありますが、
ワシは違うんです。
人間関係は責任と感恩の関係に尽きるんですよ。
そう思いませんか。
責任感ある行動を見て感謝の念が湧くんじゃないでしょうか。
恩に感じるんじゃないでしょうか。
権利と義務の関係では利害の域を超えないんですよ。
血が通っていないんです。
血の通わない関係に、信頼は湧きません。
感動は、言葉を超えた世界にあるんです。
衣食足りて礼節を知ると昔から言われていますが、
まぁ多くの人は、衣食足りないと礼節を忘れるんだと思いますが、
何かそれは権利と義務の域なんよね。
日本人は本来、衣食足らずとも、礼節を知る心を備えているんやけどねぇ。
ワシは、あんまりDNA と言う言い方は好きじゃないんだけど、
日本人のDNA には、
衣食足らずとも、礼節を知っている民族なんだと思うのです。
そろそろ、権利と義務の呪縛から脱しませんか!
それが唯一『人間』に戻れる心のあり方なんだ、と言いたいなぁと感じた今週でした。