人間は『胸に秘めたる念(オモ)い』がなければならない。
と思うんだけどねぇ。
真っ赤な炎でなく、青い炎です。
真っ赤な炎は、吹き消えることが多いんだけど、青い炎は、中々消えないもんです。
胸に秘めたる念いは、めったに口に出すもんじゃないし、
どんな状況に陥っても消えないんですよ。
人の『おもい』には、思い、想い、念い、があるように感じます。
『おもい』の度合いが最も強いものが執念の念です。
ここで言う執念は、理想像を諦めない執念のことです。
だからワシは文字を書く時に、わざわざ使い分けています。
『思い』と『想い』と『念い』を区別して。
自分の生き方に念いがある人は、心自由に歩めていると感じます。
一般的に通用している愛というものは、強さから生まれていないように感じるし、
むしろ弱さや必要性から生まれて来る愛の方が多いような気がするんです。
それは真の愛じゃない感じがしますね。
その証拠に、愛というのは、すぐに裏返しになってしまって、
敵同士になったりしている世間は、多いように感じます。
『愛憎』というくらいだから、世俗の『愛』の裏側には『憎』が、
くっついているんですね。
真の愛であれば敵対することは起こらない。執着心から敵対が起こる。
ワシは、それらを超越した物事の本質に眼を向けるよう心がけているんです。
物事の本質を追求して行くことによって生まれる真の知識を手に出来るように感じます。
その可能性は、全ての人間の内奥に存在していると思うんです。
世間の知識を超越した真の知識こそが、自分に自信を与え、次元を高めてくれます。
多くの人達が、世間に合わせ、順応して生きることが社会的に自立している
人間の条件と知らず知らずに教えられて来た人は、多いと思います。
それを批判はしませんが、ワシに言わせると自分に素直に生きることが出来ず、
世間という魔物の下敷きになって生きている姿にしか見えないんだよね。
それは決して自立しているとは見えない。
世間に合わせることは言葉を変えれば世間に管理されることであり安全な位置を獲得するけど、
自分の道を犠牲にしていることになっているんです。自分の思うがままに、自分に素直に生きられない。
それでも人として生きなければならない。そこに欲求不満が残るんですね。
一方、世間に合わせようとせず、世間に背を向けて歩む人達は単なる変わり者として、うさんくさい人として片付けられてしまう。ならまだしも、
時には世間を敵に回してしまうことになる。
世間に背を向ければ、不安な日々を送るのは必定。
どっちに転んでも、欲求不満ないし不安から解放されることはない。
ワシはこう考えます。
外面的なことに身を任せるんじゃなく、自分という内面に身を任せるなら、
自分という存在に確信を持つことが出来るはず。
外面的なことだけに、関心の眼を奪われていては、いつまで経っても主体性を確立することなど出来ない。
自分に確信を持ちましょう。その為に確りと内面に眼を向けましょう。
人が自由を求めるのなら、管理される方を選んで、自分を不愉快な人間にしてはいけません。
我が道を生きるとは、我を見捨てず、我を人任せにせず、自分の内面を大切にして、我を知ることにあるんです。
ワシは人様の言うことを聞く聞かないかよりも、自分の言うことを聞くか聞かないかを、いつも意識しているんです。
たいていの人は、世間に合わせることに気を使っている。他人の言うことを聞くか聞かないかを問題にしている。
ワシは自分に対して、『お前はワシの言うことを聞くのか聞かないのか。』という自問自答をして来ました。
こうした生活態度が、自分を裏切らない、ということにつながって行くんです。
自分を裏切らなければ他人をも裏切らないものです。
自分勝手ということではなく、本質的に自分を大切にしている人は他人のことも大切にするんですよ。
愉しい人生とは、そんなところにあるんじゃないでしょうか。
身近に接する人を裏切ったり、無下に扱ったりするのは人の道に反しますが、
その身近な人の大切さを、十分理解していても、時と場合によっては、
大切な人に目をつぶってもらわざるを得ない状況も起こるでしょう。
それを相手に納得して頂かなければならないのです。
自分本位の損だ得だというレベルで、大切な人や、ものを扱ってしまっては、その大切な人や、ものに失礼だと思うのです。
皆さんは、自分の都合や、その日の気分、目先の利益に流され、自分や大切にすべき人や、
大切にすべきことを裏切ってしまってはないでしょうか?
満足を求めるなかれ、納得ある人生を。ですね。
納得する為に、自分の内面に眼を向けるんです。
揺れない心を手に入れましょう。
それが青い炎やと思った今週でした。