『気は配るもの』
これがワシの昔からの心情であり、信条です。
特に仕事では、あらゆる面に、
「これでいいのか?
これでいいのか?」と、
自問自答を何回もすることで、下書きを何回もすることでミスが無いよう、
よりクオリティーを上げているんです。
皆さんにも、確認、確認、確認の、習慣を身に付けてほしいと願います。
それが皆さんのクオリティーを上げてミスを防ぎ、
周囲に迷惑を掛けない努力と思ってほしいのです。
『気を使う』と『気を配る』は香川湧慈的には似て非なるもの。としています。
気を使われると、こちらも無意識に気を使うようになって心に疲れを感じてしまうのです。
気を配られるのは、心に疲れを感じないんです。
例えば、ワシはいつも昔からなんですが、自分が誰かに何かしてあげたかったら、
してあげる習慣があるんです。
世間一般の多くの人のように、してあげたから、何かしてくれるかな、というような見返りなんて、
これっぽっちも無いんです。
だから、自分の氣を配ってるんです。
充実してるから、福を分けるお裾分けならぬ『お福分け』をしてるだけなんです。
だから自分も相手も疲れを感じないんだと思うのです。
ちょっとでも見返りを求めたい人は、気を使うんだと思うのです。
だから自分も相手も疲れを感じるんじゃないかと思う次第です。
ワシは世間体とか見栄とかが好かんのよ。
自然体じゃないから。
世間体を否定はしないけど、余りにも世間体を気にし過ぎる人が多いと感じて仕方ないのです。
礼儀とは、世間体を氣にするお返しでなく、
自分が何を以て相手にお役に立てるかを考えて、
誠実に、その思った事をしてあげることだと思うのです。
何々してあげた「のに」。
と思うくらいなら、せんでええのとちゃいますかねぇ。
ワシは、こういう感情が、、、好かんのです。
また色々してあげた「のに」と思っている相手が居ても、自身の「生きる哲学」を深めながら、
実践していると、やがて「覚悟」が具わって来ます。
すると、その「のに」の相手が居てくれたから「こそ」、自分が強く、深く、
広くおおらかになるキッカケになったと、ある種、感謝に似た感情が湧いて来ますから。
どうぞ精進あれ!
もっと自然体にみんなが成ってほしいのです。
せないかん事と、せんでもええ事の判断が瞬時に出来る自分の『モノサシ』を持って毎日歩む為に、自分のものの考え方を深く深く掘り下げる習慣を持つこと。その為に古典を読むことが、哲学を深めることにつながるんです。
ほんまに。
本を読みゃあ、良いってもんじゃないと思うのです。
どのような人物が言うているのかが大事だと思うのです。
まぁ何百年、何千年も残っている考え、哲学は普遍性(真理性)があるんじゃないかと思うのです。
日本人の先哲達の哲学を学ぶのは、自分の哲学を深めることにつながるんです。
道元禅師、親鸞上人、弘法大師、聖徳太子、名だたる武将達、等々。
そして、
相手に気を使わさない配慮を自然体で立ち居振舞いできるよう心懸けたいものです。
そのコツは「してあげたのに」の感情が起こらない心の学びを訓練するしかないと感じます。
すべては、自分の「ものの考え方、捉え方」なんです。幸福というのは。
どんな仕打ちを受けようと、如何なる状況下に置かれようとも、自分を見失わない強い心を養ってほしいと思うのです。
人生は問題解決能力を身に付ける為に存在する。と言っても過言ではないと思うのです。
仕事が思わしく行かないのは銭が無いからではなく、アイデアが無いからだと思うのです。
ワシは寝てる時と「姿勢堂」という脳と頸椎一番二番の気功調整のお手入れをしてくれる所へ、
週一ペースで通ってますが、この二つの時以外は、
四六時中、経営のことを考えています。
風呂入ってる時も、酒飲んでる時も。それが経営者ですよ、誰だって。
長い目で見ると、人生にはムダがないように思えてなりません。
何が起こっても、大変な目に遭遇しても、
これも運命と覚悟して、、
「ハイ分かりました!」と、
つべこべ言わず、淡々とこなして行くようにワシはしております。
皆さんも、つべこべ思わず、言わずに、しんどいけど、前世で自分が蒔いた種。
その因縁が今来てるんだと覚悟して、アイデア出して淡々とこなして行く習慣が実は自分を強くするんだと、学習能力を付けてくれているんだと思うことですね。
最後に、こういうことを身に付けるコツというか、
習慣は、体調コンディションを定期的に、まぁ週一ペースで体調のコンディションを整える身銭投資の継続だと自分を振り返り確信します。