何の為に学問をするのか?
それは、自分の精神性を高め、澄んだ心を手に入れる為にするのです。
学問は、謙虚で素直な姿勢でなければ、いつまでも、目の曇りは取れず、
鏡には濁りしか映らないんです。
澄んだ心でなくては、澄んだ鏡を見ることは出来ないんですよ。
澄んだ心の人の『心』を感じ取れないんです。
誰しも、澄んだ心と濁った心の両方持ち合わせているものです。
出来るだけ多くの時間を、『澄んだ心』で居られる方がいいと思うのです。
だから、毎日『学問』した方がええでしょ、と言うとるのよ。
鏡は何の為にあるのか分かりますか?
自分の良心を規範として、過去の自分の経験と知識に照らし合わせて、
自分は何を為すべきかを今一度正す為の『反省』をする為に存在するんだと思う訳です。
毎日、自分の顔を見てるやろ?
『ええ顔』してますか?
見た目だけちゃうよ。
そうしながら、常に自己チェックをすること。
無意識に本道から外れていないかを、自己チェックせないかんのです。
自らを省みる。
他人の誰もが見ていないから、自己チェックせないかんのです。
欲の赴(おもむ)くまま、思い付きのまま行動してはいかんのです。
欲による揺らぎがなく、
常に自己チェック、反省を以て事に当たらないかんのです。
精神性を高めることから、逃げてはいかんのです。
遊ぶことばっかり考えて日々過ごしてないですか?
自分の日々の行動に、
高みが、大きさが、深みが、身に付かなくなるんです。
※
義務になってもいかん。
遊びになってもいかん。
自然と襟を正す感じが大切です。
『精神性を高めようと日々努力している人』の言葉が、気持ちが、理解出来なくなってしまうんですよ。
そういう悪習慣(学問を日々しない、避ける。)を続けていると、精神性を高めようと努力している人との『縁』が徐々に離れてゆくようになって、不平・不満・愚痴・泣き言・文句の世界を巡る羽目になるんですよ。
表面的な事も大切やけど、
黙って周囲の役立ちに行動し続けるのです。
これを健気な努力と言うんです。
健気な努力している人は美しいと感じます。
(表面的なものは求めず、唯してあげる。
表面的なものを求めてはいけません。求めると、相手を疲れさせてしまい、本末転倒になるんです。)
誰に評価されなくても。
評価されたいから、行動するのは、カッコ悪いと思うのです。
昔のヒットCMに『男は黙ってサッポロビール!』というのがあったけど、男も女も一緒です。
見返りを求めず『黙ってしてあげるだけ。』がカッコイイと思うんだけど。