※道とは、人間のあるべき姿であり、全ての人に当てはまる幸福の状態とでも言いますか。
全ての人間の人生を有意義に全うする考えや行動のこと、とワシは捉えています。
ということを前置きして。
極め尽くされた『道』とは
見聞(見たり聞いたり、ちょっとやそっと勉強したくらい)の及ぶ範囲ではないと思う訳です。
おそらく深く見えないところに隠されていると思う訳です。
本来『道』を得るとは、肩肘張って(さぁ、自分はこれだけ勉強したから、モノにしたぞ、的な)得るもの
でなはなく、自ら修めることに、ふつふつと喜びが湧き、行動してて、
心の底から『ああ、なるほど!!』と処を得た喜びが、身の内から沸き起こって来るものやと思うのです。
だから、誰でもが手に届くものなんです。
そして尽きぬことのない楽しき学究の道なんです。
人間とは何ぞや?!を学び続ける、探究することが、自分の血肉となり、
実践することは喜ばしく愉しいと感じるものです。
『道』を知ろうと学び、日々の生活に応用して行くことは、人としての処を得、喜びに満ち溢れるものです。
お釈迦様の弟子に『維摩』(ゆいま)という僧が居ました。
この維摩(ゆいま)が病に伏せているから、他の弟子達に、維摩の病の根源は何かを学ばさせる為に
見舞いに行かせる話があるんですが、誰も答えが分からない。
唯一、文殊(もんじゅ)という弟子だけが気付くのです。
維摩(ゆいま)の病は、『衆生(しゅじょう)病むがゆえに、我れ病む』ということに気付いたのです。
つまり、維摩は自分がどれほど修行を重ねたとしても、衆生(しゅじょう)=民が皆、苦しみの中に居る。
ありがたい仏道にすら、触れることが、叶(かな)わぬ者も居る。
この衆生が苦しむことが、私の病なのです。と。
どのようにすれば、衆生が皆苦しみから離れることが出来ようか、
これが見出だせないことが私の病なのです。と。
ワシは昔、仏教を勉強してて、これを会社に当てはめて考えてみました。
どれほど社長が修行(勉強と実践)を重ねても、社員が皆苦しみ(愚痴、不満、病、貧困、争い等々)
の中に居ることが、社長自身の病だと。
社員の心を我が心とし、社員の苦しみを我が苦しみとし、共に在る心を持つ。
そうして、我が心が満たされるよう、豊かに成るよう道を尽くすのみ。
その取り組みとして、規範を整え、理念を明確にし、
会社としての在り方を決定することやと信じて取り組んで来ました。
そして、社員が生活が出来、文化的なこと(外食が楽しめ、趣味に時間とお金が使え、少しずつ貯金も出来、たまに旅行も楽しめ等々)
が出来るだけの給料を工面し、教養を身に付けてもらう為の機会を設け、人間として有意義な生き方
の哲学を整えることに全身全霊を懸け、会社の理想を明文化しようと気持ちを注いで来ました。
だから、自分自身の心が、愉しめているのだと感じている次第です。
でも、この『哲学』を持つということは、自分勝手な自分の人生経験だけを以て『人生哲学』とするので
は意味を持たないんです。
共通基盤たる哲学を学びながら、自らの経験を乗せて行くことが肝心要(かんじんかなめ)なんです。
正に、人間らしい親なら、皆、こういう気持ちが備わってるはずなんです。
家族の体調の健康、心の充実、生き生きとした姿を見ることが、親としての幸福感だと感じる訳です。
社長は社員に対して、主人であり、師匠であり、親でなければ、皆の充実は有り得ないと思う訳です。
皆さん、どうですか?
維摩(ゆいま)のような心境で、自分の周囲の人達に接していますか?!
出来る、出来んを言うとるんじゃないんです。
おまはんに、そういう気持ちが、ありまんのんか?(笑)
と問うてるのです。
この気持ちがあなたに芽生えない限り、あなたの心の充実感も生活面も、あなたの努力が報われな
いようになってるんだと思うのです。
自分が、してあげている『のに』、あれは自分が、言うてあげた『から』とか、(笑)ね。
せっかくのあなたの努力が、振り出しに戻ってしまうのよ。
一回言ったら『待った!』は、聞いてくれませんし、効きません。
また一から振り出しなんよ。
厳しいでぇ。
でも、しょうがないわな、言うたんやから、、、、、
またスタートしたらええのです。今度は下手打たんように、言葉を考えて、そういう想いが浮かばない
ような心を備える訓練(毎日の自分の心を豊かにする刺激を自分で自分に与えること)せな。
要注意ですよ!
私がした『のに』。
私がした『から』。
振り出しに戻るでえぇ~!