昨日、道元禅師と親鸞聖人のエピソードをメッセージしたらええなぁ。って、
インスピレーションが浮かびました((笑)ホンマに)ので、今週のメッセージとします。
まず、ずっと以前になりますが、道元禅師の『正法眼蔵』を勉強していて感銘を受けたエピソードです。
道元禅師が中国(宗国)へ修行に渡った時のこと。
その当時、中国でも、まともな禅の和尚は無かった模様。
「無理して命懸けで宗国まで来る程のことはなかったわい。」と、諦めて日本へ帰ろうとした時、
そこへ椎茸を買いに来た品格のある老僧と出逢い、
「あなたの様な見識豊かな方がどうして典座(炊事当番)をしておいでになりますか?大きいお寺なら、他の若い僧に任せたらいいでしょう。一泊して、どうか私にあなたの話しを聞かせて下さい。」と。
すると老僧は道元にこう言ったのです。
「日本から来たお馬鹿さんよ。あんたは修行の意味が分かっていない!修行というのは本を読むことでも、古人の語録を読むことでも無い!自分の仕事にどれだけ一念無想になれるか。
自分の仕事にどれだけ徹することが出来るかである!今、私が師匠から与えられた仕事は、
炊事当番です。このような大事な仕事をどうしてお座なりに出来ましょうや。」と。
学をすること、知識を得ることが修行だと思っていた道元禅師は、猛省した。というエピソードです。
今、目の前の与えられた己の仕事は何ぞや!
それを自覚したら、一念に打ち込む。そうすることで無想(他事が浮かんで来ない雑念が湧かない)に成れる。
これを『一念無想』と言うのだと。
皆さん、特に経営者の人達は、熱心に様々な勉強をされていることでしょう。
今、自分の為すべきことに徹しているか!を胸に問いましょう。
次に親鸞聖人のエピソードです。
親鸞聖人の弟子達が、問いました。
「本当に南無阿弥陀仏を唱え教えを守っていれば、
救われるのでしょうか?
お師匠様。」と弟子達。
親鸞聖人曰く。こう諭すのです。
「よもや釈尊(お釈迦様)が嘘を言うだろうか?
まして、我が師匠、法念聖人が嘘を言うだろうか?
やがて寿命を終えて、あの世に帰った時、真実が如実に明らかにされる。
明らかにされた事実が、
釈尊の教えも我が師匠法念聖人の教えも、嘘であったとしよう。
そうであっても我、悔い無し!その心境が、人を信じるということじゃ!」と。
さすが、諭し方に唸りましたよ。
どうですか、皆さん。
人を信じるということは、自分の都合じゃないんです。多くの人が、結果自分の都合に合うなら、信じ。
都合に合わないなら、信じない。というのは、『信じた』ことに成らんのです。
そういう意味で自分の日々やってる事を信じていますか!?
どんな結末になろうと、
我、悔い無し!の心境で取り組んでいますか!?
社員を本当に信じていますか?信ずるに値する社員を迎えいれていますか?
手が足りないから、安易に採用してないですか?
採用した社員に自分の人生哲学をぶち込んでいますか!?確り人格教育をしていますか!?
喩え、パート社員やアルバイト社員であっても、心の何処かで、パートやからバイトやから、って思ってませんか?
だから!相手も無意識に、心の何処かで、自分はパートやし、バイトやし。って思ってしまい、自分本来の誠心誠意を仕事で出し切れなくなってしまうのです。
自分とこのパート社員やアルバイト社員や、正社員をも、その人自身の誠心誠意を出し切ってあげることが出来てないとしたら、
その責任は、社長!
あんたや!
あんたの責任や!
と昔、ワシは自分自身に言い聞かせて来たんです。
やっぱり、結局、
トップ一人の責任じゃわな。
ご一考あれ。