『人の心の読める苦労人。参ったと言わぬ、器量人。』
ずっと以前から、こういう人間でありたい。と、思って来ました。
人の心を読むとは心中を察すると言うこと。
これには自分が誠実な心を備え、深い人間洞察力を備えていないと出来ません。
素直な心と誠実な行動が出来ていて『人間とは何ぞや』という人間学を深めていないと、
相手の心中なんて察することは出来んと思う訳です。
軽々しく『解ります』なんて、ワシはよう言えません。
世間ではよくあるでしょ『わかるぅ~。』って簡単に言うている人達。
心中察するには、こういうことも言えます。
世間から見ると、不遇な状況になっていても不平不満、愚痴、悪口を言わず、
その状況を自らの知恵と行動で克服してゆくことは必須かなと思う訳です。
また『人間とは何ぞや』ということを素直な心で探究していると人間洞察力が
身に付くか?と言えば、中々そうはいきませんが、やっぱり苦労するしか、
身に付かないと思う訳です。
苦労していても、その苦労の体験で、ひねくれてゆく人も居れば、人間的魅力が身に付く人も居ます。
この差は何なのか?
やっぱり物事の捉え方や考え方が、反省心を備えているか、否か?
人の道に則っているか否か?じゃないかなぁと感じる訳です。
自分と違う価値観を、認める素直さ。共感せよ、とは言いません。
価値観が違うんだから。認めなさい。と言うているんです。
多様なる価値観を認めるから自分の価値観がよりしっくり納得がゆくようになります。
異なりを認める素直さと、己の価値観を確り持つ強さ。
器量人とは、如何なる状況に置かれても決して『参った』とは言わない器量を
備えた人間であり続けたいと思って人間学を深めて来ました。
そしたら、窮地に陥ってもスグに立ち上がってしまうような脳になってしまいました(笑)
いわゆる、落ち込み続けることが出来なくなったという訳です。
こういう脳の習慣化が身に付くと、沸々とエネルギーが湧いて来るんです。
肝が据わって来ます。
『腹が据わる』とは、想定内の大変な事が起こっても動じない気持ちの持ち方です。
想定内だから、ひょっとしたら、大変な事が起こるかもしれない。
その時自分はこうするわ!と覚悟したら腹が据わる。という意味。
『肝が据わる』とは、全く想像していなかった大変な事が起きても動じない心です。
その為には、人生観を確立していることは必須かなぁと感じる訳です。
自分は、どんな人生を歩みたいのか。どういう生き方なら、本望なのか。を、
己の中に確りと持っていること。人生を生きる哲学であり、信念であり、
最終責任は自分が取るという覚悟が己の中に核を根付かせます。
言葉では簡単に聞こえますが、あなたはどういう人間の学びをしていますか?
と問いたい。苦労はしたくないけど苦労を自分で克服しないと『モノ』に成らんのです。
人間力つまり、人間的魅力は、苦労を苦労と感じない精神力と教養と、器量を備えていかんと、身に付かないんです。
今、ドン底かも?って思っている人に言いたい!
心震えてますか?!
ドン底の時に、何を考え何をするかで未来が決まってゆくんです。
あなたが行動できていない、いや、していない理由は
『行動したくなる程心が震えていないから』という唯一点にあるんです。
人の道とは何ぞや?を学ぶには、やっぱり『神道』や『仏教』を学ぶことに尽きます。
それも、どんな著者が解説しているかは大事なんです。
これも巡り合わせやから、その人の運でしょうか。
運が来てくれるか否かは、あなたの素直さ次第やと思う訳です。
多様なる価値観を持てるかどうか、に掛かって来ます。
あなたのその信念は、真に信念ですか?
先ずは自分の思いを疑ってみることって大事です。
頑固に陥ってないですか?信念と頑固は紙一重。
人間教育は、先ずは、知的理解を得る努力。
そして知識として納得したら、日々の生活で実践し続けるしか自分教育は出来ません。
教育とは、知的理解を与え、反復訓練することでしか、出来得ないと思う訳です。