『人情と真の運』
他人(ひと)に何か頼み事や、立場上からの指示をしないといけない時に、
相手があなたに、人情を感じてくれているか否かで、相手が『その氣』に成ってくれる可能性が高まるか、
仕方なくお座なりにするか、です。
何かを頼んだ時、或いは指示を出した時に、情が流れていることが人間関係では、すごく重要なんやけどねぇ。
全く、そういう観点や感点が無いんちゃうかぁと感じてしまう人、あなたの周囲に居ませんか?
そういう人、人間関係上手く行かんわなぁ。と思う訳です。
指示を出しても、何か頼んでも『ちゃんとしてくれない』人が居るあなた。
その人に『人情』が湧いていますか?そこなんよ、鍵は。
真に人情が湧く間柄は真剣に関わり合っているか?に掛かって来ます。
人情や絆や信頼関係は『理想に対して雨を降らす』ことをすることで築いて行くことが出来ます。
保身の為に、相手のことを気にしていると、雨は降らせません。自分が他人からどう思われるだろうか?という観点は大事なんですが、
どう思われるだろうか?には、二通りあるんです。
一つは、相手を生かす為に、自分の行動がどう思われるだろうか?と考えることは大事です。
もう一つは、自分がその人から良く思われたいという保身の為に、変な気を遣う人達は多いんだろうねぇ。
雨を降らすとは、真剣にぶつかり合う事を言うんです。
つまり、理想に対して摩擦を起こすんです。
物理的に摩擦は、磨く事だから、人間も磨かれてゆくんです。
だから自分を取り巻く集団が『雨降って地固まる』に成ってゆくんです。
日本古来からの諺(コトワザ)は、なるほどなぁと思うよねぇ。
ただ単に感情的にぶつかり合っていては、雨を降らすことには成りません。
それは単なる言い合いとか、喧嘩(ケンカ)です。
『理想に対して』雨を降らすことが大事なんです。
ぶつかり合って善いのは『理想に対しての議論』です。
積極的な摩擦を敢えて起こすことが、真の人間関係を築いて行くことに繋がるんやから。
次に、世の中で自分は運が良いと思っている人達も多いと思うんですが、
ワシが感じるには、運の捉え方が、たぶん、香川湧慈の価値観とは違う人達、
多いと思う訳です。なぜならば、大体が、お金に困っていないとか、健康に過ごせているとか、人間関係も比較的良好だとか、仕事が順調だとか、そんなとこだと感じます。
ワシは、真の運とは、ワシの芯に成っている価値観が『神道』と『仏教哲学』を亡き人生の師匠から学んでいますから、そういう事とは、全く違います。
仏教哲学の学びの中にお釈迦様が、こう言っているんですね。
川の砂を左手で掬(スク)って「これが世の中に生きている衆生、人々である。」
それを親指と人指し指でツマんで「この指の間にある砂が、正しい生き方を模索している人達である。」と言った。
そしてそれを親指の爪の上にパラパラと載せて、載ったいくつかの砂粒を指して
「これが正しい教えに出逢える、答えに出逢える人である。」と言ったんです。
ワシは、これを読んだ時「やっぱり!そうかぁ!ほんまやわぁ!」って、
沁み入ったのを思い出します。というのは、ワシは、あの世からでも自分の人生を充実させてくれる導きをしてくれている、亡き人生の師匠の哲学と言うか、
教えと言うか『善き師匠の存在』があるから、お釈迦様の説話に、沁み入った訳です。つまり、何が言いたいか?
運が善い人生とは、物欲に満たされているとか、身体が健康だとか、お金を沢山持っているとか、仕事が順調だとか、では無いんです。
神道的に言うと、それ等は前世からの因縁の結果が、かなりなウェートを占めているからです。
今世の自分の努力だけでは無いのよ本来は。
あの人生の悟りを得たお釈迦様が言うてますよ。
『釈尊といえども因縁の法は曲げられぬ』と言うとるんです。
つまり、悟った自分(釈尊)でも前世からの因縁は受けるのが宇宙の法則なんだ、と。
皆さん、会社の倒産や病気で辛い思いをしている人達や、お金が貧乏な事が、なぜ?不幸だと捉えるんですか?
今世は、自分ではどうしようもない前世からの因縁を受けるんだから、覚悟して受けるしか、ないんです。いや、覚悟して受けないかんのです。
そういう精神的強さを持った方が、今世を愉快に歩めると思うんです。
如何なる状況に置かれていても、不平不満や愚痴を口にしない。
明るく生き生きと毎日を歩んでいるかを、実は神々は見て👀いるんです。
悪い条件下の時に笑顔でニコニコ物事を対処しているかなんです。
そういう人を人格者と言うんです。
大変な目に、誰だって大なり小なり遭うんです、人生は。
大事なのは、自分で考え、行動して難局を自ら克服して行くこと。
『真の運が善い人生』とは、
お釈迦様の言う「親指の爪の上にパラパラと載せて、載ったいくつかの砂粒の人達が、正しい教え、答えに出逢える人」
なんだとしたら、
香川湧慈的には『人生の善き師匠』に出逢えた人は『運が善い』ということに尽きるんです。
ワシは、同じ価値観を持ち、同じ方向に向かう人達を自分の友人にすることが、
人生の全てなんだという結論で自分の人生を歩んでいます。
『友人』とは、血縁以外の人達だけを言うのではありません。
女房や子供や親や兄弟姉妹も含まれます。当然社員や、お客さんや得意先や個人的友達など、縁深い関係先の人達のことを総称して『友人』と言うております。
皆さん!40歳過ぎたら、もう「あれもこれも欲しい!」って物質欲や権利欲を一つ一つ捨てて行きませんか。
そういう思考習慣をしないと、見苦しい人生に陥りますよ。ハッキリ言うて。
40歳からは「求める人生から、捨てて行く人生」を志ませんか。楽ですよぉ、毎日が。
シンプル イズ ベストが結局、自分の人生が充実するんだとワシは感じて仕方ないんだけどねぇ。
欲は人間生きている限り、無くなる事は無いでしょうから、欲を持つなら、我欲でなく、大欲を持ちましょう。
生涯懸けて惜しくない自分の『仕事』をやり続ける大欲を。
人間は何の為に、生まれて来たのか?性格も違う、生きる価値観も違う数十億の人達全員に香川湧慈の答えを言います。
自分の人生を、精神性豊かに、心温かい人物に向かうような人生を歩むことに尽きます。
そのような人物に成るように導いてくれている『善き師匠』と出逢えることが出来たとしたら、
それこそ『運が善い人生』と言わずに何と言いますか!人生に於いて、善き師匠を得ることが出来ていれば、それが人生最高に運が善い。と言えるんです。
そういう出会いをしている人、そうは居ないんちゃうかなぁ。
生涯を通して善き師匠を得られる人達が果たして何人居るんだろうか?この世の中で。
もし、善き師匠を得られなかったとしたら、心配要りません。
あなたを取り巻く縁が深いであろうと思える周囲の人達に『慶ばれる存在』に成ること一択です。
それが自分が、この世に生まれて来た人間の役割なんです。
これなら、志せば誰でも出来る筈です。
でも、自分がストレスに感じる我慢してまで慶ばれる存在に成る必要は無いんです。
『真に慶ばれる存在』とは、お互いに心地好い状態じゃないと、成れないんです。
気は使うから気疲れするんです。氣は配るものです。
自分に氣が充満しているから配ってあげられるから、疲れないんです。
あなたが、縁深いであろう人達から『慶ばれる存在』に成ること無くして、
お金が潤沢であろうが身体が健康であろうが仕事が順調であろうが、
一場の幻(まぼろし)に過ぎないんよ。
(あ、これは明治天皇の遺言にも書いています。明治天皇の遺言を額装してエモーションに掲げていますから。平成9年に手に入れて読んだ時、明治天皇凄いな!って思いましたから。)
今世、あなたがどう生きるか?が、来世の因縁を作るんだから、
不平不満や愚痴や文句を言わないで、自分の人生の充実とは?を、
探究してゆく日常が、真に愉快な日々を歩めると、思うんやけどねぇ。
そういう日々を歩んでいる人を、そして稀有であっても『善き師匠』を得られている人を『真の運が善い人』なんだという価値観です香川湧慈は。