『らしく』という意味を皆さんはどう捉えていますか?
エモーションの経営理念が『志高く、らしく生きる』という言葉ですが、
こう明記しておるんです。
『らしく』とは、時と処(トコロ)と立場に相応しい行為です。
つまり、その瞬間瞬間に『的を射た言動』が出来ていて、タイムリーに相手の心に響く、もの言いや、行為が出来ている。ということです。
相手の心に響くから、相手の心が救われるんです。
良かれと思い、言い放った言葉や行動が、時と処(トコロ)と立場を得ていなかったら?つまり、的外れだったら?
これは、人間としての永遠のテーマですワシに言わせたら。
時と処と立場に相応しい行為のことを『時処位相応の行為』と言います。
日本古来の言葉であり禅語です。時処位相応の行為を善と言います。
善悪の善です。善つまり、正義の基準なんです。
あぁ、言うときますが正義の基準は、民族によって異なります。
エホバの神の教祖キリストを信ずるユダヤ民族は『聖書』が正義の基準になり、
アラーの神の教祖マホメットを信ずるイスラム民族は『教典コーラン』が正義の基準になります。
では日本民族は?『人の道』が正義の基準なんです。
時処位相応の行為が善つまり、人の道です。
だから、瞬時瞬時に、場合場面で、人の道が実践されているか。
自分に身に付いていることを時処位相応の行為と言うんだから、
人間の永遠のテーマだとワシは思う訳です。
話を戻します。
例えば、世間によくある事例で、あなたの友人から、悔しい、口惜しい気持ちを、あなたに聞いてほしくて投げ掛けられたとしたら、
あなたは、瞬時にどういうもの言いをし、行為を現しますか?
ワシは、瞬時に、感情移入して、まるで自分のことのように、一緒に悔しい気持ちを現して、怒り狂うようなもの言いをしてしまっているんです。
『歯に衣着せぬ』ストレートなもの言いが、相手には響くもんです。
この場面、瞬間では、グサッ!と相手の心中を捉えたドギツイ言葉でないと、
相手の気持ちは救われないやろうとワシは感じてしまうんです。
その相手にしたら、自分の気持ちを分かってくれたぁ!って瞬時に感じてますから。
相手の心を救う言葉になっています。どれだけ『ドギツイ』言葉であっても。
だって、その人の心中察しとるよぉ!気持ち、充分過ぎるぐらい解るでぇっ!って感じが、相手に伝わっているんやから。
これ『耳障りの良い』言葉で、抑揚の無い言葉だったら、たぶん、相手の心には響かないと感じます。
一緒に怒り狂ったり、一緒に涙したり、一緒に相手の悔しい気持ちになってあげる。喜怒哀楽をハッキリ見せるんです。
それを『聞こえのいい言葉』で返しても、相手の心に響くことは無いんです。
理屈じゃないんです。現場の臨場感が湧かないから。
理屈で『聞こえのいい言葉』を考えてしまう人は、他人事(ヒトゴト)だからです。
つまり他人事(ヒトゴト)でなく、自分事として捉える心が、ワシは優しさじゃないかと思うとる訳です。
オブラートに包んだような、もの言いをしないといけない時と、
歯に衣着せぬもの言いをしないといけない時の区別が、
対する相手への、その時点での相手の心中を察する洞察力にかかって来るんです。
物を動かすには、道具が要りますが、心を動かすには、哲学が要るんです。
時には『ドギツイ』表現が、相手の心を救うんですよ。
オブラートに包んだ言葉を投げ掛けるシチュエーション(場面)か?
ストレートな言葉で、共感を表すシチュエーションか?
自分事と捉える思考習慣なら、相手の心に伝わるんだと感じておる訳です。
こういう感覚理解できますかねぇ。
他人事(ヒトゴト)意識を消して、自分事意識が相手を理解してあげる気持ちじゃないでしょうか。
言葉尻だけで判断していると、無意識に他人事(ヒトゴト)人間に陥りますよ。
と言いたいのです。