やっぱり勉強熱心じゃない人は、その人の人生、心の奥底からの充実は無い!と感じるなぁ。
人生は『鋳造』でなく『鍛造』でないと充実には到らない。
これがワシの価値観です。
鋳造は、鋳型に液を流し込んで作る物。
鍛造は、鍛え上げながら、思う形に作る物。
この鋳造と鍛造の意味が分かりますかねぇ?
自分の生涯懸けて理想の姿を描き、そこに向けて自らが工夫を重ねながら、
自分の人生を形作ってゆくことが、鍛造です。
が世の中のたぶん多くが、鋳造を選んでいる人生を送ろうとしていると感じる訳です。
人生は、送るものでも過ごすものでもなく、歩むもの。が価値観なんです。
歩むとは、人生の目的があって、その実現に責任感を持って歩いて行くこと。とワシは定義しています。
鋳造は、予め決まっている型に、流し込んで作る訳やから、
それを、人生に例えると、いわゆる有名大学を経て、有名大企業という型に、
自分の人生を流し込もうと努力しているということ。
そのレールが大方は、経済力が付くという思いがあるからじゃないかなぁ、と。
まぁ、それは良いとして、自分の寿命までの人生を、よくよく想像しての判断なのか?
お金至上主義とまでは言わないけど、お金は生きて行く上に欠かせない大事な物。人生目的を果たそうとするには生きていないと、目的は果たせないから、
生きて行く為には、お金が必要。お金を稼ぎ続けないといかんのです。
けど、生きている間だけ必要な物で、寿命が来たら、必要は無くなる訳です。
だから、ワシが言いたいのは、人生の『バランスと、その質の高さ』を想像して自分の人生を描いているんだろうか?と、感じることがあるんよねぇ。
身体のコンディション良好で、心は、いつもベストコンディションで、
日常生活でほしい物が買える、行きたい所へ気軽に行ける経済力があり(貯金が沢山あるという訳でなく、いつでも稼げる力のこと)
仕事も好きな様に出来ていて、会社や家族の人間関係も良好。
この五つのバランスが取れていて、尚且つ、より高い次元へ向かっている状態がワシの価値観なんです。
その為に必要なものは生きている『氣力』『氣迫』『勢い』やと思う訳です。
氣力と氣迫と勢いが、日常に備わるには、将来を見据えて、現在の準備を怠らず、事に当たっては積極的にやり抜く氣概と実行力を持って、自らの体験を通して、自分独自の法則を生み出しているから、ワシは、どんな状況になっても、
氣力と氣迫と勢いが日常になっているんだと、ふと思いました。
ワシの長年の体験から言えるのは、皆さん!
自分の人生の充実とは何ぞや?を内観してみて下さい。
氣力と氣迫と勢いが、人生に工夫することを生み出しますから。
状況が厳しいから人間は工夫せざるを得ないんです。
難関にぶつかって鍛え上げられて、強くなった人は、人間らしい働き甲斐のある生活が出来るんです。
それから更に進んで、自分から困難に立ち向かう。
目的地に達した後の人間として、順路を歩いて来た人と難路を歩いて来た人を
比較してみた時に、大きな差が出来る。
実力は難路を歩いて来た人に付くに決まっているんです。
だから、厳しい状況は有り難い訳です。
これ状況が、ずっっと調子良かったら、工夫なんて普通せん人が多いんちゃうかなぁ。
『どうする?家康』じゃないけど『どうする?自分』という状況になるから、
人は工夫するように、せざるを得ないようになって行くんです。
神道は、つまり神の説く道は、人の動機論でもなく、結果論でもないんですよ。
つまり、如何に動機が正しくても、結果が正しくなければ仕方がないんです。
また、結果がどうであろうと動機が正しければ神は応援してくれるんだろうか?
神は『何を為したか』という行為論です。
神は、人間が、どんな動機であろうが、どんな結果であろうが、関係ないんです。どう行動したか、という行為だけを神は見ているんです。
それが自分の将来を形作る因縁の基準になってしまうと神道は説いています。
他人に、勇氣や喜びを与えている行為だけが神の評価なんです。
そういう人を応援してくれるんです。
その為には自分が生涯懸けて果たすべき自分にしか出来ない役割を自覚して、
自分の出来得る事によって果たすことなんです。
知恵を以て果たす者、汗を掻いて果たす者、自分が出来得る限りの範囲によって果たすんです。
分かりますかねぇ?
自分の理想像を描いてなければ、自分が果たすべき役割なんて自覚出来んですよ。
自分の人生の経営者は紛れもなく自分なんやから。