『情け』について今週ふっ、と浮かんだ事。
最近感じてしまう事がありまして、思いに耽(フケ)っていましたら、
過去の記憶が思い出されました。
過去の記憶の件を話す前に、先ず最近感じてしまう『情け』について、
サービス業に従事する人は特に、自社のお客さんに対しては、
情けを掛けている人が多いと感じますが、
その人達は本当に、自身の内面に『情け』を備えているんだろうか?と、
感じる瞬間があるんです。
自社のお客さんじゃない人への、何気ない言動に『情け』を感じない事、
いわゆる険(ケン)がある言い方を目の当たりにした時に、
ほんまにこの人『情け』を備えているんだろうか?と一瞬感じてしまうんです。
これじゃ、利害関係がある間柄の人にだけの『おもいやり』じゃないか、
と感じてしまうのです。
そういう人が何言うても、心に響かないもんです。
本当に『情け』を備えている人は、どういう場面でも『情』を感じるんよね。
理屈じゃないんです。そういう意味で『情』の在る人は、人間力が高いんです。
人間力とは人間的魅力の略語です。
考えなくても瞬時に、情のある言動が、利害関係の無い人にも出来ているもんです。
あと、マナーマナーと声高に言う人も、何か人権、人権と声高に言う人に、
似ている感ありなんですが。
人権、人権と当たり前のことを声高に言う人は『人格』の乏しい人が多い気がするんですよ。
そう思いませんか?
人権?そんなん、朝顔会わしたら『おはようございます。』と言うのと同じくらい『当然』に、身に付いている事ですよ。
自然体で接している事なので、声高に言うもんでもないと思うんやけどねぇ。
同じ様にマナーマナーと声高に言う人も、
自身の内面に『礼儀』や『情』が乏しい人なんじゃないかと感じてしまうのです。
例えば、ワシは一度しか面識のない人でも、自分が好印象を抱いた人には、
それ以降に会った時やメッセージには、
相手が年下で男性の場合はですが『君』付けで呼ぶことが多いんですが、
これは親しみの情を込めた敬意を表した呼び方なんです。
親しみが湧かない人には決して『君』付けでは呼びませんワシは。
やっぱり、どこか他人行儀になってしまい勝ちなところは否めませんから。
年下の男性で『さん』付けで呼ぶ人もいるんですが、他意はありませんが、
何となく最初に『さん』で呼んだ人には、以降も『さん』が多い人も居ますね。
こんな人初めて見たんですが、
たぶん『君』とは敬意を表した呼び方ということを知らんのでしょうけど、
親しくもしていない間柄なのに、しかも相手が年上の人に対して、
いきなり、こんな事言う人を見て驚いたことがあります。
『親しくもないのに、君付けで呼ばれるなんて失礼です。マナーの勉強して下さい。』的な、ことを言う人が居るんですよ。
そういう人は『君』の意味を理解してないんだろうなぁと感じます。
総理大臣だって、内閣総理大臣○○君!と呼ばれているしね。
君主や主君という言い方も、最高の敬意を表している呼び方です。
相手が年下の男性で『さん』付けというのは、何かしら他人行儀な感じがしてしまうんだよねワシは。
だから、そんなに親しくしてはいなくても、
ワシの第一印象が好印象の年下男性には『君』付けで呼ぶことが多いんですよ。
だからワシから『君』付けで呼ばれている人は、親しみの情があるからやと思ってね✨
ワシの場合はですが、年上の男性から『さん』付けで呼ばれると、
別に嫌ではないですが、人によっては、他人行儀感を感じてしまうことがある人は、居ますね。
逆に、そんなに親しくなくても、相手が年上なら『香川君』と呼ばれる方が、
ワシは親しみを感じてくれているんやと、こっちも親しみが湧くんだけどね。
そして、親しくもない年下の男が高飛車に、偉そうにマナーの事を言う人が居るのよ。さっき話した人のことです(笑)
そういう人の方が、マナー違反というか、心に情が無い人やなぁと感じてしまうんよねワシは。
まだ親しい間柄の年下の男性から、偉そうに言われる方が、情を感じるんだけどね。
マナーというのは、形は大事です。が、形が出来て後、
形に囚われない、立ち居振舞いや、相手に緊張を与えない言動が、
実は真のマナーじゃないかと感じています。そこには心の根底に、情が流れているんですよ。
情なき形はマナーに非ず。です。情というのは、人を選ばないんです。
情は『慮(オモンバカ)り』のことです。
まぁ『相手に対しての深い思いやり』が慮りと言う意味です。
あ、そうそう、過去の記憶を思い出したエピソードを話ますね。
泣くよ、この話。
以前テレビで吉本興業の月亭八方自身が言うていたエピソードに、ワシは思わず涙しました。
何度思い出してもこの話、涙が込み上げて来るんですよ、情を感じるんですよ、
この話を誰かに話したり、書いたりしていると。今も早やウルウル来とります😢
その昔、月亭八方はギャンブル等で借金を多く抱えていた時、
他社である松竹新喜劇の故藤山寛美から突然呼び出されました。
自分の会社の先輩やないんですよ。吉本じゃなく松竹ですから。
芸事の先輩というだけの関係ですよ、藤山寛美さんは。
何の用か分からずに、藤山寛美の所へ行った月亭八方。
座敷に通されて、いきなり藤山寛美が
『八方君、君(キミ)何やようけ借金あるみたいやなぁ聞いとるで。』
八方
『いやぁ、寛美先生。お恥ずかしい。不徳の致すところでして。』
藤山寛美
『八方君、これ使(つこ)うて。』
と、藤山寛美が風呂敷に包んだ中身は現金で一千万円。差し出したんです。
八方
『えぇっ?👀、何でですか、そんなんもらう理由ありませんよ。』
藤山寛美
『八方君、君(キミ)困っとるんやろ。使うて。
その方が、この金も活きるっちゅうもんやから。
ワシなぁ、借金十億あんねん。しやからこの一千万有っても無かっても、
一緒やねん。』
この言葉を、月亭八方自身が言うた瞬間、
八方も、ワシも同時に涙が吹き出たことを思い出しました。という話です。
人の情けがハラハラと袖に掛かる時、人は、その人に対して報わねばならん。
と心するものです。
こういう自然な行為は利害関係を超越した情が備わっているからなんですね。
もう一つワシが今でもジンと来るテレビCMがあります。
タイのテレビCM で、『感動はプライスレス』というタイトルでした。
当然文字はタイ語ですが、日本語訳が書かれていましたから分かったんですが。
こんな映像から始まりました。
貧乏な少年が万引きをして、店主から追い掛けられている。
その光景を見た、違う店主が、お金を持って万引きされた店主に『何ぼや?』と支払いました。
親戚でも何でもない見ず知らずの少年です。
その少年が翌日お礼に店の前に来た時、店の前で揚げている物を、
その少年に『食べろ』と言って差し出しています。何日も、何日も。
そして30年の年月が流れ、その優しい店主も高齢となり、突然、病で倒れます。
娘さんが病院に父親を連れて行き、すぐ手術をしました。
後日、治療費の請求書が届きました。
開けてみると、請求書の金額がゼロです。
娘さんは、病院長に、請求金額がゼロなんですが、、、と言うと、
40代の院長先生が一言
『お代は30年前に頂いていますから。』と。
何と30年前に万引きをして、娘さんの父親である店主に助けられた少年が、
病院の経営者に成っていた。
そしてテレビ画面には『感動はプライスレス』という文字が出ていました。
何度思い出しても、このCM は泣けます。自分の心が洗われる感覚になりますね。
人は誰しも、心に垢が毎日着くんです。
出来たら毎日心の掃除をしたいものです。
ワシは、こういう自分の心が洗われる行為をちょいちょい無意識にやって来たなぁと、
ふっ、と思うんです。
だからまだ何とか、心が浄化されるんだと感じます。
皆さんも、自分で自分の心の垢が取れて行く行為をせんですか。
藤山寛美やタイのテレビCM の事例は、
当に『情けは人のためならず』の日本のことわざは的を射てますねえ。
そう感じませんか?
心の根底に『情け』を備えた人物であり続けたいと思った今週でした。