『身に詰まされる』ことが自己変革の胆。
同じ話を聞いても、身に詰まされる人と、そうでない人が居る。
この差は何なのか?
同じような体験をして来た人か、そうでないかでも分かれると思うんだけど、
他人(ひと)の痛みや、心中を感じられる感性を持ち合わせている人は、
身に詰まされる感情が湧き出て来て、自己を振り返るキッカケになっているように感じますね。
同じような体験をしていなくても相手の心中を瞬時に察せられる人と、
そうでない人。
やっぱり、相手の心中を察せられる人間性を高めたいと思いませんかねぇ?
経営者の中ではこういう人を多々見掛けますね。
こういうことです。
商売が中々上手く行っていない状況の時は、
勉強熱心で他人(ひと)の話も聴く耳を持って心中を察しようという姿勢が
感じられる心持ちなのに、
まぁ飯が食えるようになって来て、ちょっとお金が回って来たり、
貯金が若干出来て来ると、
勉強熱心さが欠けて来たり、他人(ひと)の話も、自分のことのように聴く耳を持たない心の姿勢になっているなぁと感じる人達。
多いなぁと感じるんだよね。
どういう状況であろうとも、人生の生き方を学ぼうとする姿勢や、
他人(ひと)の心中を察しようという姿勢が備わっている人を謙虚な人じゃないかと、思う訳です。
何も表立った行動だけを見て、あの人は謙虚な人だと判断するのはどうかなぁと感じますね。
如何なる状況下でも、心中察しようとする心を備えている人。
他人の体験を自分のことのように感じられる感性を備えている人。
生き方の勉強への熱心さを備えている人。
こういう人間性を備えている人が、謙虚な人だとワシは思います。
外見の行動がガサツに見えても、内面は中々分からないもんです。
人間皆『自我』がありますし、自我は無くなることはないと思いますが、
何事も、手を抜かないこと。熱心さ。相手がどんな人であろうとも心中察しようとする心の姿勢。
そういう習慣を身に付けて行くと、自分の内面を振り返る習慣が身に付いて行きます。
自分の内面を振り返ることを『自省』と言いますが、自分を映す物に鏡がありますね。
鏡(カガミ)は、自分を映しますから、鏡を見る習慣を身に付けてほしいと思います。
自省していると、徐々に我欲が取れて来るように思います。
自分を映すものが、鏡(カガミ)なら、自省して我欲の我を取って行くことが出来れば、神に成るんだと感じます。
鏡(カガミ)から我(ガ)を除くと神(カミ)に成るんだよね。
つまり『身に詰まされる心境』は、真の謙虚さが身に付いて行くキッカケに成るんだ。と言いたいのです。