苦悩だからと言って、人生を否定するのは、おかしい。
不完全、不自由なるが故に、苦悩なのではないんです。
完全にして思いのままの天国や極楽に永久に住むとしたら、
退屈し逆に苦悩となるんちゃうかなぁと思います。
人生の享楽が極度化し爛熟した文明社会には自殺者が多い事実。
福祉国家と呼ばれる国に自殺者が多い。
政治家と称する人達が福祉福祉と選挙に当選したいが為に、声高に言うてますが、世間で言う福祉国家に充実なんて感じないと思うとるんですよ、ワシは。
国民生活が安定し生活水準の高い国ほど、自殺者が多いのは何と考えられようか。
経済的貧困国の国民は生きるのに必死やと思うんです。
何してでも、生きるぞぉっ!というエネルギーが溢れているなぁと感じるよね。
経済的貧困の為に病で死ぬ人は居るにしても、自分から死にに行く行為より、何としても生き抜いてやる!って感じを受けますが、ね。
先進国と言われている国民のように自殺者は少ないんじゃないかと感じるよね。
生活水準は大切やけど思考水準を高く崇高なものにする方が人間として充実に至るんじゃないかと感じます。
人間の心の微妙さは、不完全、不如意、不自由である人生こそ、
人を飽きさせないのです。
飽きないは、商いにも通じ、飽きない人生は人間の真理かも知れんなぁと感じます。
不完全には、完全への希望が湧きます。
欠陥には、これを満たす喜びがあります。
人生の不可解は、未知への真理探究への楽しさを生み出します。
限定されることは不自由ではあるが、限定の中に自由が存在するんです。
秩序の中にのみ、自由は存在するんです。
つまり、一定のルールの中でしか、自由というのは存在しないんですよ。
例えば俳句。
五・七・五の17文字は窮屈な限定であるが、この限定不自由さこそ最も短句の芸術を生じさせます。
不自由を利用して独特の個性価値を持ったものを創造して、
人生の意義を高めたいものですが、いかが?
心は、捉えられるものではなく、心は、活用するところにこそ、
心を捉える道があるような氣がします。時間も、そう。
たぶん真理は、自分が天から与えられた仕事をしている間だけが、
その時だけが、自分の時間だとワシは思います。
今、今、今、を自分の役割を果たしている間だけが自分の時間だと言えます。
役割を果たさず、ただ世間を渡っているだけの時は、その人にとって時間は無いに等しいんですよ。皆さん。
時間の中に居て、道を生きる姿だけが、時をこなしている姿なんです。
時に縛られるなかれ、道を生きる姿こそ、時を使える姿なんです。見るもの、聞くものに心が執着し、感情浮き立つ姿は、心を離しているんです。
心に決めたる心を、自主的に使いこなしている時だけが、自分を生きる姿なんです。
どうか、真の自分らしい生き方をしてほしいもんです。
自分らしい、と思っていることが独りよがりになっていないか、を自問する心の習慣が、魅力を創ってゆくと感じます。
その為に、真剣に生き方を論議する機会が、沢山あることが自分を磨くんですよ。様々な「真剣な考え方」を聴く、一旦受け入れてみる。
この思考が、あなたの器量を創るんですよ。
人間は、究極、苦労人であり、器量人に成らんと、やっぱり生きとる意義が無いんちゃうかと思うとります。