店や会社や、また一家を治めて行くにしても、親子のような親しみ方をすることは、
親しみ過ぎて礼を欠くことに陥る可能性があるからです。
ケジメが付かなくなり、秩序も規律も無くなるとダメになって来ます。
「一悪生ずれば、百悪集う。」です。
だから、経営者は社員の些細な「まぁいいやん」には厳重注意せないかんのです。
わがまま放題に育ててしまった部下は、もはや用いることは出来ません。
上に立つ者が部下の私的な生活面に対して、それとなく心配りすることは大切なことですが、
昔、ある大名がこう嘆きました。
「今日(こんにち)の世に、弁慶や佐藤兄弟(佐藤継信・忠信兄弟)がいない」
と言った時、家臣の一人がこう言いました。
「否、弁慶や継信、忠信等の無きには候(そうら)はず。義経の無きにてこそ候(そうら)へ。
もし、今も義経如きの主(あるじ)あらば、弁慶も継信、忠信等も、目を突く程に、
どういうことかと解説すると、
有能な幹部は社長にこう答えた、ということです。
「いや、社長そうではありません。忠誠心豊かな社員がいないのではなく、
もし今も義経公のような経営者ばかりなら、忠誠心豊かな社員も、目を突く程に出て来ると思います。」
どうですか?
あなたは上に立つ者として、人情溢れ仕事の出来る人物ですか?!と己を省みましょう。
自分は「これ」をしていないと自分では無い!というものを見つめ直して立てて行くこと。
「これ」は、今まで生きて来た歩みの中にしか、存在しません。
一つ一つ教えている事に「慣れ」が生じていないか。を振り返ること。
その一つ一つ教えている事を、もっと丁寧に理解納得するまで、教えること。
才能の無い者にも、丁寧に教えているか。
才能の無い者が理解納得するまで、教えているか。
自分達は、これをしなければ生きて行けないという念(おも)いで、最後まで責任を持って取り組んでいるか。
それが志を貫くということです。自分がやった事を整理して、報告をする。
これが次に起こる事の準備となるんです。
究極の危機管理は、ちゃんと毎日丁寧にチェックして報告を受けること。また自分からも報告すること。
腕一本足一本失っても、自分は「これ」で役に立つ。というものを持つことが危機管理に成るんです。
社員一人一人に、仕事をさせる役割を作っているか。
社員一人一人が、納得できる仕事をさせているか。
犬ですら、エサをくれる人でなく、散歩(犬の仕事)をさせてくれる人に付くのである。
でも一旦、手のひらを開いて行くことが、苦からの脱却になる。
まさに「放てば、満てり。」である。
理想を時折り「理想はここに在る!」と振り返るしか、理想と現実のギャップを埋めることは出来ない。
「ものさし」は、自分の背中に刺すこと。