誠意ある善人の能力なき誤惑。
たぶらかされた者は哀しいが、たぶらかされる者が居るから、欺(あざむ)き惑わす者が居るんです。
この両者の関係は釣り合っていて相応しい関係なんやと感じます。
だから、精神的に自律して自立することが、惑わされない唯一とも言える方法です。
自律と自立の出来ていない人達の陥りやすい行動が、祈祷師、占い師、霊能者に相談してしまうんですよ。
で、彼等(祈祷師、占い師霊脳者)の誤った断定によって人を惑わすことは多いんです。
大体、人間は自ら運命を切り拓いて歩むものなのに、
霊能者達は「観てる」つもりが本当は「見せられて」いるんです。
高い神々は、そんな人間世界の、しかも個人的な人間に関わることは無いと思うのです。
だから霊能者達に憑依して「見せて」いる張本人は、狐や狸の動物霊や、低級霊なんだと思うんです。
人間は「自律」して「自立」するしか、自分を生きることは出来ないと思うんです。
それには「感性」を磨かなくては、中々、自律と自立は難しいと思うんです。
感性は、感情のわがままや自分勝手とは違います。
勝手に生きることを自由に生きていると勘違いしている人も多いでしょうし、
勝手には責任が無いからです。
自分の自由な言動は、責任が伴いますから。
感性を身に付けるには、努力や工夫を重ねる必要があるんです。
つまり、努力や工夫の先に感性が待っているんです。
「感性=センス」とも言えます。
この「感性、センス」を身に付けたいなら、他人に精神的に頼ってはいかんのです。
我欲蠢(ウゴメ)く世界が、この世の中ですから。
生まれ持った体質的に、霊感の強い人は沢山います。
当の本人の好むと好まざるに関わらず、です。生まれ持った体質ですから。
そういう人が、我欲が強くなった時に、低級霊が憑依してしまうんだと思います。
これは何も、霊脳体質のある人に限ったことではありません。
我々一般的人間の多くが「誠意ある善人の能力なき誤惑」をやってしまっているんです。
だから、謙虚に、先見性を磨き、一人一人が自分の言動に責任を取り自律と自立をして行かないといかんなぁ、と思う次第です。
謙虚さとは遠慮ではなく、理想像を持った上で、常に自分の言動を自分で振り返る内省しか、
自分の理想像を持たないかんでぇ。そして、常に言動を内省する習慣を。