「真の自立こそ幸福の原点」
なのに、真の自立が出来てない人が、ものすごく多いんじゃないかと感じる。
だから、世の中乱れ、欺瞞、嫉妬、詐欺、イライラ事が絶えないのです。
何故自立が出来てない人達が多いと感じるかは、自分に迷いや不安があるから、
(迷いでなく悩みならOK。不安でなく危機感ならOK。)
占い師とか、ヒーリングでアドバイスするヒーラーとか霊能力があるとされる、
いわゆる霊能者と呼んでる人なんかに、視てもらいに行っている人が多いからです。
そういう「依頼心」を克服せないかんと思います。
霊能者という人達は、自分が好むと好まざるに関わらず、
生まれ持った体質的に、そういう能力が備わった人だと思うのです。
ワシの考えは、
人間の様々な煩悩(人間関係や病気や貧困や性格など)に対するアドバイスをしている人が多いようですが、その時にお金を取ってはいかんという考えです。
そういう能力は、陰で使うことに意義があるんです。
お金を取った時から、その霊能力の備わっている人達は、垢が着き、汚れるということを、
思いもしないと思うし、気付いてもいないと思うのです。
だから自分の生活を維持する経済活動は、普通の仕事をして欲しいのです。
そして、そういう能力があることを決して言わないことが、
その人(霊能体質のある人)自身のためだと感じます。
悩んでいる人達のお役に立ちたいと言うのなら、お金に替えてはいかんのです。
そこに気付いて欲しいのです。
縁ある人に、そっと陰で願ってあげることが大事なんです。特にそういう能力のある人には。
よくよく考えてみて下さい。ホームページまで出して、不特定多数の人達に呼び掛けている訳ですよ。
実縁もない人達に、霊能を無闇に発信してはいかんと思うのです。
良かれと思いやってるとしても、それは霊能に対して無知なんです。
無知が罪を作るということを知らないんです。
自立した人間は、どんな事が起ころうと、自分で悩み、考え抜き、答を見出だし、志を貫くんですよ。
常に意欲に燃えているんですよ。
またそうでないと、自立に至らないんですよ。
読書や仕事に打ち込むことや、人間関係での摩擦の中から、そして何気ない他人の言動から、
今直面している自分の問題事の、解決のヒントを掴み取っています。
自分の仕事に一所懸命打ち込んだり、何事も「自分事」と捉える習慣を身に付けていると、
徐々に依頼心が消えて行きますから。
他人に良く思われたいという気持ちが、自分を裸に出来ないんです。
他人(ひと)の「興味の眼」を気にしてはいけません。
自分らしく生きるとは、
まず志を立てること。
そして裸になること。
そしたら、他人の「興味の眼」は気にならなくなります。
悟りの人と言われる良寛さんの至言に、
「苦しみから逃れる道は、苦しみ切るが宜しく候(そうろ)う。」というのがあります。
ワシは昔、この言葉に出逢った時、唸りました!
「なるほど!!」と。
苦しみ切っていないから、苦しいんだ。と良寛さんは言うとるんです。
良寛さんの詩は、観念して生き生きと生きる勇氣をもらえますね。
「表を見せ、裏をも見せて、散る紅葉」
(この裸になるという心境は清々しい覚悟。)
「散る桜、残る桜も、散る桜」
(まさに、観念の境地。)
まさに、悟りの句という感じです。
つまり、悩んでいるから、誰か、霊能力のある人柄の良さそうな人に相談したい。
アドバイスをしてほしい。(本来アドバイスというのは、その人が自立する方向に導くキッカケを与えることと思うのです。決して病・貧・争つまり病気や貧困や争い事の解決案じゃない。)
と思う気持ちは分からんでもないですが、それで心スッキリするのも分からなくもないですが、
そういう気持ち、つまり依頼心が消えない限り、いつまで経っても、自立した心は備わらないのです。
自立せん限り、自分の心は自由にならんし、真の充実は訪れないと思うのです。
大事なことは「霊能」には、関心を持たないこと。=自立への道。とも言えます。
(霊は本当に恐ろしいのです。興味半分が一番危ういんです。霊能者自身ではなく、その霊能者に※視せている霊本体の喰い物になってしまうのです。)
霊能以外の心理学であるとかコーチングであるとかは、いいのですが、霊能に対する軽い気持ちが、恐ろしいということを気付かないんです。
また霊能体質の備わっている人は、その能力を決してお金に替えないことが大事なんです。
人の役に立ちたいなら、
その気持ちが本心なら、
そっと陰で願ってあげて下さい。
自分の生活は、普通の仕事に打ち込んで、お金を稼いで欲しいのです。
それが、生まれ持って霊能体質を備わった人達の為すべき使命だと思うのです。
ワシの友人にも何人か霊能体質の備わっている人がいますが、決して言わないし、
自分の仕事に誠心誠意打ち込んで生活しています。
そういう人達は、神社参拝を続けることで自身の魂の浄化をしていると感じるのです。