権利を主張する人をワシはムシが好かんのです。
権利意識が増えるほど、
その人の人格と、引き換えているように感じてしまうのです。
権利を一つ言えば、自分の人格が一つ劣る。という感じというか、宇宙の法則のようなものは、
そうなっとんじゃないかと感じてしまうのです。
あなたが主張する権利意識と引き換えに、自分の最も大切な人格を差し出しているんですよ。
寓話に例えるなら、小鳥が森へ食べ物を探しに行くが、中々見つからない中、少年と出会う。
少年は小鳥の食べ物を持っていて、小鳥に言うのです。
綺麗な羽一枚と一回分の食べ物を交換しようって。楽して食べ物を得たい小鳥は、
自分の大切な羽を一枚差し出す。また明くる日も、そのまた明くる日も、、
ある日、食べ物を食べた小鳥は、自分が飛べるだけの羽が失くなってしまったという話。
そこに気付かないかん!と思うのであります。
権利を主張するというのは、自助努力を怠るということにつながるのです。
人間はやっぱり、し甲斐のある努力をせないかんと思います。
権利には、
主張しなければいけないものと、
そんなものは考えてはいけないものがあるんです。
例えば、陰湿な、権力者に対しては、人として主張せないかん権利は、
堂々と主張したらええのです。
がしかし、自分のことを想ってくれている人には、
決して権利を主張してはいかんと思うとります。
そんなことしたら、自分を大事に大切に想ってくれている人の心を傷付けることになるのです。
悲しませることになるのです。
瀬を失(な)くさせてしまうからです。
分かるかなぁ?
この感覚。
世の中見てみて、声高に、権利ばっかり言っている人達は、どう観ても、人格者には見えません。
感じません。
主張しなければいけない権利と主張してはいけない権利の区別、分別をちゃんと着けれる人物になりたいじゃないですか。お互いに。
ムシが好かん。と前述しましたが、この『ムシ』って漢字でどう書くか、分かってますか?
『無死』と書くんですよ。
つまり、死の無い世界を、無死と言います。
死の無い世界とは、いわゆる『あの世』のことを言い、まぁ、神々の世界(無死の世界)と捉えて下さい。
つまり『無死(ムシ)の 知らせ』と一般的に言うのも、
意味は、あの世つまり、
神々の世界からの『お知らせ』という意味です。
もっと分かりやすく言うと、ムシが好かんというのは、神々から好かれていませんよ。ということにもつながります。
どうか皆さん、
銭が少ないのは知ってます。
銭が苦しいのは知ってます。
五千円、一万円余分に欲しい気持ちは分かります。
五万、十万余分に欲しい気持ちは分かります。
だからと言って、銭の奴隷に陥らないように!
人の道を、
自分の胸に置いて、一寸の虫にも五分の魂です。
ケチ気(げ)になってはいかんのです。
自分の人生がケチ臭くなるんです。
グッと堪(こら)えて、
ケチな人間に陥らないように。
貧してる時、貪欲に陥らないように。
他人をうらやましがらない。
銭の奴隷に陥らない。
必ず天は観てくれています。
あなたの真心を、あなたの人の道を、あなたの素直さを。
素直とは、自分の信念が確りあり、
かつ、他人の心情を真摯に受け止めれる心のことです。(自分の意見と反対であっても)
排他的でない、聴く耳を持っていて、区別や分別が出来る人のことです。
いかんなぁ、と感じたら、スグ止める努力。
善いと感じたら、気付いたらスグする努力。
一生涯を通して、ほんまもんの『しあわせ』を感じたかったら、世間のずるさを体験し、飲み込んで、
自分の真心に正直に生き切ることやと思います。
酸いも甘いも全部飲み込んで、己の役割を果たし切る。
つべこべ言わない。
明らかに認める。
一方を聞いて沙汰(判断)しない。
考えて考えて、考え抜いてどうしたらいいか分からん時は、感じたままに生きる。
ワシは、こういうようにしています。
こんなメッセージを毎週『贈って』いるのも、自分が他人からどう評価されたいとか、
という気持ちや思いは、つゆさらありません。
ワシは他人の評価に左右されませんから。
何人か、こんなメッセージでも、自分のことのように捉えて、受け止めてくれて、感じたまま、
感想を返してくれる人達がいるから、たった一人でもいいのよ、他人事(ひとごと)でなく、
自分事として、内面に向き合ってくれる人がいるなら。という念(おも)いから発信しています。
単なる『つぶやき』では無いんです。
人は、大きい役割のある人には、役目のある人には、必ずと言っていいほど、
『絶望の淵』に立たされるんだと思えてしまうのです。
『お前の志は本氣なのか!』を天から問われていると思う訳です。
そういう人に、勇氣と希望が湧くキッカケのメッセージであれば、甲斐があるのです。